道通宮社史

 今から約400年前の天正10年(1582)6月4日、備中高松城主だった
清水長佐衛門尉宗治の次男長九朗が落城の際、敵のスキを伺って、逃走を試みました。
その途中で、かねてよく信仰する道通宮に、
「首尾よく逃れさせ給らば我家末代に至るまで鎮守として奉祀する」

と祈願すると、たちまち霊験顕れ、 

一匹の白蛇に守り導かれて、 浅口群西大島御滝山に、無事逃れる事ができたのでした。

以来道通宮を鎮守として祀り、その子孫は山麓に住居を構えて村民となりました。
4代の孫伝兵衛の代になって沖新田に転居し、名主として要職に就いたそうです。

沖田桑野小用水には、「これより東伝兵衛」と刻まれた柱が今なお残っています。
その後、寛政12年(1800)4月12日沖田神社境内へ宮は移され、
沖田神社の御末社に加えられました。

道通宮御祭神


猿田彦命(さるたひこのみこと)

古事記によれば、この神は天照皇大神(あまてらすおおみかみ)の孫で、
天孫瓊瓊株尊(ににぎのみこと)が豊葦原水穂国(とよあしはらみずほのくに、日本国)に御降臨の時、
日本国の国土の守り神として、その先導役をつとめたといわれ、

道を開き通じ奉った神ということで「道通宮」という名がつけられたと言われています。

みちびきの神、道の神として、各地の神社の御祭礼には必ずといって良いほど、
御輿の渡御の先導をつとめる鼻高面の神として、その面貌が人々に親しまれています。